「普通」ということ

 以前、病院に勤めていた時よく聞いた言葉は、「普通に歩けるようになりたい」「今まで通り普通の生活がしたい」でした。
 私が作業療法士を志し、大学に入学したての1年生の4月。ある科目の初めての講義で、担当教員が始めに行ったことは、講義室にいる約80名の学生の目を閉じさせ、ある共通性を持つ学生の肩に手を置いていったことでした。
 そして全員の目を開けさせその教員が言った言葉は、「今肩を叩かれた方々、皆さんは私から見たら障がいを持っています」でした。
 ほぼ全員が、何を言っているのだろうという顔をしていたと思います。少なくとも私自身はそう思いました。続けてその教員は、「字が見えにくいから眼鏡をかけている。足が不自由だから車椅子にのっている。何が違いますか?」
 ある共通性とは、眼鏡をかけていることでした。私の中にある「普通」という概念が変わった瞬間でした。

 確かに眼鏡をかけている人は多くいます。恐らく多くの人は、眼鏡をかけている人を見ていちいち「あの人眼鏡かけているな」とは思わないでしょう。でも、街中や電車やテレビで車椅子に乗っている人を見たとき、多少なりとも注意がそちらに向いてしまう人は多いと思います。
 逆に、向けられるべき注意が向けられていない事実もあると思います。オリンピックはあれほどテレビで放映され、さらに金メダルを獲得した選手は英雄として大衆の前で喝采を浴びるのに対して、パラリンピックはどうでしょう? 職業柄、個人的にはもっと注目しようよ、と思ってしまいます。
 大学入学当初という時期もよかったのかもしれませんが、このようなことを学び、また考える機会を得られる出来事として、今でも記憶にしっかりと残っています。

 「普通」という言葉はとても使いやすい言葉ですが、これほど曖昧な表現は無いと思います。学生時代に、「自分の常識は他人の非常識」と何度も教えられました。
 「普通」という概念は、その時代的な背景や文化に大きく影響を受けると思います。今の私達が生活するこの社会では、ある時は協調性を重んじるばかりに「普通」ではない人は弾き出され、また時に他にはない、つまり「普通」ではない発想などが求められることがあり、一体何を求められているかが分からなくなる時もあります。

 では、多くの人が求める「普通」であることとは一体どんなことなのでしょうか?
 そして私達は何をしなければならないのでしょうか?

 ニューヨーク大学付属リハビリテーションセンターの壁にこんな詩が書かれています。作者は諸説あり不明です。


<悩める人々への銘>

大きなことを成し遂げる為に 強さを求めたのに
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことをできるようにと 健康を求めたのに
より良きことをするようにと病気を賜った

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世に人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために 人生を賜った

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

私はもっとも豊かに祝福されたのだ



 人にはそれぞれに異なる価値観があり、「普通」の定義があります。「普通」とは千差万別であり、「普通」という「普通」なものは存在しないのではないだろかと思います。
 私達はその人それぞれの「普通」を理解し、できる限りその「普通」が獲得できる様な方法を精一杯考え、時に周囲に助けを求めながらでも提供していかなければなりません。そのためにも「普通」を可能な限り叶えられるよう、私達は求める想いを聞き届けなければなりません。そうでなければ私達が関わる方々の「普通」を得ることはできません。
 あえて言うのであれば、恐らくこれが私達の「普通」ではないのかと思います。

事業本部
主任 理学療法士 鈴木 真

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