ゆとり教育の本質的な意味

教育とは何か? ーーー古くて新しい問題である。
ちょうど昨日から、大阪市では問題行動のある児童・生徒をランク付けして対応をしていく、というニュースが流れていた。かなり指導困難な子どもに対しては(隔離という言葉は使っていなかったが)個別のニーズに合わせた教育環境を提供する、ということである。一部には、ゆとり教育を受けた世代であることが原因、との発言をする、識者と称する者もいた。

どのような教育方法がよいかは、時代背景と社会の要請に左右されることが多い。
明治以降の近代の教育方針の原則は、社会に有用な人材を供給することが前提となっている。社会に貢献できるような能力を開発し、他者との協調性を身につけ、上部の意見には素直に従い、限られたある範囲の中で自由を享受できるような環境を作ることが、昭和の高度成長期まで教育者には求められてきた。
しかし、1989年11月にベルリンの壁が崩壊して以降、大部分の世界中で、今までの秩序は変化した。右が左に、左が右に。その理由を誰からも説明されることなく、世界は変わっていった。今まで正しい、当たり前と思われて来たことの価値が崩壊し、今まで正しくない、常軌を逸脱していると言われていたことが、個性的だ、未来的だと価値をつけられた。
試しに、それまでのオリンピックの入場行進を観ると理解できる。それまでは手の振り方も整然とした行進をしていたものが、現在はバラバラに、時には自身でカメラを持って写している姿さえ観られる。世界各国でそのように変化している。

一般的に、ゆとり教育が確立したのは学校5日制が始まった頃、とすれば、1992年頃なので、ベルリンの壁崩壊後に生まれた子どもたちがゆとり教育を受けている。このことの意味をもう少し考えてみよう。
ベルリンの壁が崩壊した日のテレビニュースは自分でもよく覚えている。壁の上に上がろうとした東ベルリンの住民に、軍が何もせずに壁を壊すのを見守っていたシーンである。
私は、「撃たれるよ、あぶないよ」と心配しながらニュースを見たが、次の瞬間何も起こらなかった。
この時、自分の中でもきっと何かが崩れたのだろう。
同じように感じた大人は、私以外にもたくさんいたのではないか。
今まで秩序と思っていたものが意味をなさなくなる時が来るなんて、想像などできやしなかった。明日からどうしていこう?何を信じていけばいいのだろう?でも、自分ではどうしようもないから、とりあえず意味なんか考えずに今まで通りのことをしていこう。こう思ったに違いない。
今までと違い、誰かの指示を聞いておけば何とかなってきた自分に確信が持てないまま、意味付けができなくなった今まで通りの仕事をこなそうとする多くの大人たちがいた。

今の子どもたちは、こうした大人から教育を受けている。
この出来事が、大人にも子どもにも全く影響していないわけがなかろう。
子どもは敏感である。彼らの質問に確固たる自信を持てないで大人が対応していたら、いつか子どもは疑う。そして大人を試す。
傷ついた子どもたちは、そうした自分に気がついて欲しいから、目を引く行動に出てしまう。

教育は、いつも、その時々の社会情勢や時の権力者に大きく揺らぐことなく、本人の持っている能力を引き出すことが求められる。人として必要なことは、どんな時代であっても普遍的なものである。それを貫き通せる覚悟が教育者には求められる。それができなければ、教育に口を差し挟むべきではない。
社員教育であっても、この覚悟は大切なものである。

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